○心の良知、これを聖と謂う。聖人の学はただこれこの良知を致すのみ。自然にしてこれを致す者は、聖人なり。勉然(べんぜん)としてこれを致す者は、賢人なり。自ら蔽(おお)われ自らく昧(くら)くして、肯(あえ)てこれを致さざる者は、愚夫不肖(ぐふふしょう)の者なり
(解釈)「心にある良知こそ最高のものである。我々の目指す聖人になる為の学問は、ただこの良知を発現すること、これに尽きる。それを無理なくできるのが聖人、努力してできるのが賢人である。私欲に蔽われて、あえて良知を発現しようとしないのは愚かな人間である」
○人は天地の心にして、天地万物は本(もと)吾が一体のものなり。生民(せいみん)の困苦茶毒(とどく)は、いずれか疾痛(しっつう)の吾が身に切なるものに非ざらんや。吾が身の疾痛を知らざるは、是非の心無き者なり。是非の心は、慮(おもんばか)らずして知り、学ばずして能(よ)くす。いわゆる良知なり。
(解釈)「人間は天地の心であって、天地万物はもともと我と一体のものである。だから、民衆の苦しみや痛みは、わが身にとっても、そのまま切実な痛みでないものはない。この痛みを感じないのは、是非の心を持たない者である。是非の心とは、『孟子』に『考えないでも分かり、学ばないでもできる』とあるもので、いわゆる良知に他ならない」。
王陽明は、50才を過ぎて、『致良知』説を提唱する。これが王陽明の思想の最後に到達した境地とされている。「良知」とは禅の悟りのように、時と所と場所を問わず、常に即座に、その場にもっともふさわしい判断と実践をもたらす能力のことを意味した。この良知を育むものは『無私の自愛』と彼は説く。良知の自然な判断能力を、自分の奥深い内にある一人の聖人にたとえるなら、それとは別に常に日常生活の中にたち現れ、その聖人を無視してわがままに振舞うもう一人の凡人がいる。大事なことは、聖人がこの凡人を統御することによってはじめて良知・良能が発揮できる見なし、これを『致良知』と言った。
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