陽明は、理想社会の欠かせぬ大要素として、「そもそも人間は天地の心であり、天地万物は本来的に我なる人間と一体のものである。だからこそ、あらゆる人 間の苦痛・害毒は、すべてそのまま我が身にとっての、切実な痛みとして感じ取られるのである。もし我が身の病みを知り得ぬひとがあるとすれば、それは是を是とし非を非とする心、すなわち人間の道徳的本性である良知を喪失したものとせねばならぬ。しかし良知の人心に備わることは、聖人と愚人で異なるはずはなく、天下古今を通じても変わらない。だからもし人がその良知を致すことつに務めるならば、自ずからその人の是非は公平になり、好悪の感情も他人と一致するから、他人を自分と同じに、国家と家庭と同じに見ることができ、天地万物を一体と考えるようえになる。
陽明のユートピア論。「聖人の心(尭・舜・兎などの為政者の心)とは、天地万物を一体とみなす仁愛の精神であり、全ての人間を内外遠近の分けへだてなく扱い、凡そ生きとし生ける者に、皆親子兄弟や子供に対すると同じ愛情を注いで、これを安んじ教育することを念とした。もちろん一般の人の心も、本来は決して聖人と異なったものではなかったが、彼らの場合は、自己中心の私情に妨げられ、物欲の障害に隔てられた結果、広大なるべき心が矮小となり、他人と通じ合っていた心も塞がり、人それぞれに私心を抱いて一人一人の心がバラバラになってしまった結果、遂には親子兄弟を仇敵視する者さえでてきてしまったのである。そこで聖人はこれを憂えて、万物一体の仁心を推し及ぼし、人々を教化して、彼らが皆その私情を克服し、物欲の障害を除去し、人皆同じく有する心の本体に立ち帰らせるようにしたので、人々はやがてその本然の姿を取り戻し、道徳的で平和に満ちた社会を現出することができた」。
「万物一体の仁心を持つ聖人によって運営される古代の理想社会においては、完全な教育が行われる。その教育は、道徳教育、個々人の人格完成を目的とするが、同時に個々人の才能・力量を尊重してこれを伸張することにも留意される。例えば、礼楽に長じ、政治・教育に長じ、農耕指導に長ずる者があれば、ますますその才能を磨かせた上で、これに相応しい職業と地位に任じ、終身そのことに専念させる」。
陽明のユートピア論。「聖人の心(尭・舜・兎などの為政者の心)とは、天地万物を一体とみなす仁愛の精神であり、全ての人間を内外遠近の分けへだてなく扱い、凡そ生きとし生ける者に、皆親子兄弟や子供に対すると同じ愛情を注いで、これを安んじ教育することを念とした。もちろん一般の人の心も、本来は決して聖人と異なったものではなかったが、彼らの場合は、自己中心の私情に妨げられ、物欲の障害に隔てられた結果、広大なるべき心が矮小となり、他人と通じ合っていた心も塞がり、人それぞれに私心を抱いて一人一人の心がバラバラになってしまった結果、遂には親子兄弟を仇敵視する者さえでてきてしまったのである。そこで聖人はこれを憂えて、万物一体の仁心を推し及ぼし、人々を教化して、彼らが皆その私情を克服し、物欲の障害を除去し、人皆同じく有する心の本体に立ち帰らせるようにしたので、人々はやがてその本然の姿を取り戻し、道徳的で平和に満ちた社会を現出することができた」。
「万物一体の仁心を持つ聖人によって運営される古代の理想社会においては、完全な教育が行われる。その教育は、道徳教育、個々人の人格完成を目的とするが、同時に個々人の才能・力量を尊重してこれを伸張することにも留意される。例えば、礼楽に長じ、政治・教育に長じ、農耕指導に長ずる者があれば、ますますその才能を磨かせた上で、これに相応しい職業と地位に任じ、終身そのことに専念させる」。
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