2011年1月10日月曜日

荀子


荀子は孟子の性善説に対し性悪説を説く、人間の性を悪と認め、後天的努力(すなわち学問を修めること)によって善へと向かうべきだとした。孟子が内なる本性の中に絶対的な善の基準を認めたのに対し、荀子は、人間の本性は、無限の欲望という悪であるとした。
そして、人間の本性が悪なる故に、その悪なる欲望を制御する外的な規範が必要だとしたのである。
その外的規範が礼であった。
理想国家観としてみると孔子、孟子が聖人による徳治国家を主張したのに対し、荀子の思想は外的規制による法治国家を主張する法家思想に繋がる。
心の主体性;荀子
では、人はどのようにして道を知ることができるのか。それは心によってである。色は目で区別し、音は耳で区別し、味は舌で区別し、臭いは鼻で区別し、快さは体で区別する。心は耳によって音声を知り、その音声を認識することができ、目によって形を知り、その形を認識することができる。心というものは体の君であり精神の主体である。心が自らよいと思えば受け入れ、悪いと思えばそれを退けるのである。それでは心はどのようにして道を知ることができるのか。それは大清明(心が清く少しも蔽い塞がることのないこと)にすることによってである。心が道を知らなければ、道を善くないものと思い、道でないものを善いと思うであろう。心が道を知ってはじめて、道を善いものとするのであり、道ならぬものを禁止し、有道の人を知ることができるのである。だから、世の中を上手く治めるかなめは、道を知ることにあるのである。

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